家族と仕事、どっちが大事なの?

この質問、どっかで聞いたことありますよね。男女間あるいは家族間の揉め事の火種の王道ですが、どう答えるのが正解なのでしょう?

できることならどっちも大事にしたい、それが本音ではないでしょうか?

しかしながらこの世は無情、仕事ばっかりしてたら家族と過ごす時間はないし、家族時間を大切に仕事を休んでいたら人より出世できないなんてことも。産休育休への理解が深まったり、有給を取れないなんて会社が少なくなってきたり、よくなってきているとは思うけど、現実としてはまだまだ「仕事と家族はトレードオフ」なのです。

*補足:トレードオフとは一方を追求することで他方を犠牲にしなければならない、両立できない関係性、または、あるものを得るために別のものを失う状況のことです。

だけど私は思う。仕事と家族はトレードオフなんかじゃない。両立可能です。家族で働けばいいのです。

私は今、夫と一緒に珈琲屋の仕事をしていて、ものすごく多くの時間を仕事に使っています。だけど夫との時間が減ることはない。だって同じ職場だから。そして珈琲屋の仕事は生活に直結している。仕事のことイコール家族のことなのです。仕事の未来を語ることは、家族の未来図を語ること。非常にシンプルでとてもやりやすいです。

SNSなどで「今日は家族との時間のためにお店をお休みします」という同業者の投稿を見るたびに、仕事を止めないと家族と過ごせない人は時間が足りないだろうなと思います。同時に、私がこんなに仕事に時間を使えるのは家族で働いているからなんだと実感。

家族と仕事はトレードオフじゃない。というか、トレードオフにならないようにデザインできる。

綺麗事や非現実的に聞こえるかもしれないけど、私はそうなんです。

私にはむいてない?呪いの言葉に気をつけろ。

私は長年、声が小さくて覇気がないと言われてきた。よって接客を伴うサービス業は向いていないと言われたことが何度かある。

だけどうちのお店ではそれでいいわけで。

森とコーヒー。は落ち着いた大人のためのお店で、大きな声でいらっしゃいませと言う方が場違いだ。多分一般的なお店ではあり得ない声量しか私は出していない。でもそうするとお客様も小さな声で返してくる。店内でお客様同士がお話しするときに(会計後に珈琲ができるのを待ってくれている時など)小声でヒソヒソ話している時さえある。「店内大声禁止」と張り紙をしているわけではない。お客様がここは静かにした方がいいのかな?とこちらの空気を汲んでやってくれているのだ。

子供の時、親から「これは向いてない」と言われたことがいくつかある。

大人になってからも、年上の人から「あなたこの仕事向いていないよ」と言われたことがある。

きっと誰だって一度や二度はあるだろう。ひどい人は何度も言われた経験があったりするかもしれない。

「あなたは向いてない」は呪いの言葉だ。その後の人生においてしばらく「私ってこれ向いてないんだ」と思い込んでしまうから。でもその指摘、間違っている場合があるから要注意。そもそもどうしてそんなことが他人にわかるのか。私より長く生きているからわかるのか。だけど親が私に「向いてない」を放ったであろう年齢に私はもうなっているけど、人の向き不向きなんてはかれるようにはなっていない。ましてや成長していく子供なんて未知数すぎて余計わからない。

自分というのは日々変わっていく。世界も日々変わっていく。サービス業の形は多様化し、お客様が店員に求めるものも変化した。最近のアパレルショップの店員さんはしつこく話しかけてこない(私が若い頃は大きな声で話しかけて店内でピッタリマークしてくる接客スタイルが当たり前だった)。向き不向きなんて、本当に誰にもわからないのだ。

私は覇気もなければ声も小さい。笑顔もぎこちない。だけど子供の頃から人に何かを説明するのが得意だった。高校生の時プレゼンというものを初めてやった。とても気持ちよかったのを覚えている。お店の店員は実はずっとプレゼンをしている。お店のこと、商品のこと、相手の状態に合わせて言葉や内容を変化させ、そして心を変化させる。私にとって自分のお店でやっている接客は、大好きなプレゼンに限りなく近い行為なのだ。

向いていないかどうかは、それをとことんやってみないとわかりませんよ。やってみた時、どんな自分が顔を出すのか、わかりませんから。

それに向いていないけどやりたいなら、やったらいいと私は思う。


自分の夢を育てなきゃ。

若い頃、そばにいる人の夢を応援することこそが私の夢、とか本気で思っていた。

今は大いなる間違いだって気がついている。

誰かの夢を応援していると、その誰かが途中で頑張れなくなり、私は応援するという夢を失いたくないために夢を追うのをやめさせないように努力するようになり、その誰かに疎ましがられ、その誰かも夢の応援というライフワークも全部失う。

誰かの夢を応援する行為は気持ちいい。達成感があるし、浮き沈みが結構あるからドラマチックだ。将来を思い浮かべて夢想する時間もとっても甘美。使命感が芽生えてきてからはなお一層盛り上がってきて、”これは私の夢でもあるんだ”などど言い出す。

だけど間違っている。人の夢に自分の夢も乗っけてもらおうなんて、そして他人に達成してもらって一緒に喜ぼうなんて、そんな甘い話は人工甘味料だ。乾いたおしぼりだ。タコの入っていなかったたこ焼きだ。

自分のやりたいことを明確に描いて、それを自分で達成する。それ以外で人生の満足感を得る方法はない。私はそう思っている。

私は会社員時代前半はお付き合いしている人の夢の応援でずっと忙しかった。はたと自分の無駄な徒労に気がついてからは、転職サイトを延々と眺めたり、大学に戻って研究しようと試みたり、ずっとずっと何かを探していた。そしたら夫に出会って一緒に一つの夢を見た。これは応援ではない。私は当事者で、私が頑張らなければ未来は開けないのである。

会社員にはわかるまい。

自分のお店を持つということは、自分のままで仕事するということだ。

お店の名前、コンセプト、商品、メニュー、お店のシステム、SNSの発信内容、全て自分で考えたものだ。

はっきり言ってちょっと恥ずかしい。作文をみんなの前で読んでいるみたいな恥ずかしさだ。(もう慣れたので今はあんまり思わない)

自分の全部を出し切って仕事をしている。

だからうまくいったといきの喜びはひとしおなのだ。

褒められるとめちゃくちゃ嬉しい。お店が好きだと言われると告白された時くらい嬉しい。たくさんお客さんが来ると嬉しい。支持されているような気持ちになる。自己肯定感が物凄く上がる。お店のことを褒められたんだけど、「私」ごと褒められたような気持ちになるから。

その反面、悲しい時の落ち込み方はすごい。

批判されると物凄く悔しい。ダメ出しされると心が折れそうになる。お店への文句は私への文句。気分が落ち込む。忘れることはできない。「私」ごと否定された気持ちになるから。

会社員だった時は「〇〇会社のヤマダです」と名乗っていた。何か文句を言われても「そういう会社の決まりなんだよ」と思っていた。私に届く否定は会社への否定であって、私自身ではない。仕事で嫌なことがあるともちろん落ち込むけど、日曜にパーっと海でも行けば忘れられた。

今は嫌なことがあったらとことん考える。気分転換で忘れられるような傷の深さではないのだ。この刺さったものを抜かないと笑えない。そんな感じで解決するまで向き合う。

SNSでのマイナスなコメントや、Googleマップへの的外れなクチコミ、バカにしたようなお客さんの態度、「珈琲一杯に何分待たせるの?」という理解のない声。こういう悔しいことがあった時、私はメラメラに怒る。私が否定されたようなものだからだ。「どうてそんなにカリカリするのか」と思われるかもしれない。「自分でやりたくてやってるんだから批判くらい受け流せ」と思われるかもしれない。だけど腹が立ってしょうがないのだ。会社員にはこの感覚、わかるまい。

だけど私はこの仕事を続ける。それは多分、悲しいことや悔しいことを差し引いても、喜びがたっぷり残ると確信できるくらい、この仕事は楽しい。

というか優しい人の方が圧倒的に多いです。1%にも満たない不機嫌な奴らには負けない。

未来の仕事を作らなきゃ。

未来の自分に似合う仕事を作らなきゃ。

会社員だったら年齢が上がればそれっぽい役割をもらえるけど、自分と夫しかいない我が社ではそうはいかないのだ。

街のコーヒー屋さんに行けば若いスタッフさんがいい感じに働いている。

この若くて感じのいい女の子の日々を想像してみる。 きらめく人生の中のごく一コマをこのコーヒー店の仕事に使っていて、他の時間は夢中になっていることが何かきっとあるんだろうな。 もちろん人生楽しいだけじゃないこともわかっていて、だからこそ楽しい時は笑うみたいな明朗さがまぶしい。 その子は目を見て笑ってくれる。「ありがとうございました」と。この子からコーヒーが買えてよかった。

私は”森とコーヒー。”の店頭にずっと立っている。

先日お客様に「あなたはこのお店にとても似合っている」と言われた。とても嬉しかった。

しかし この後の人生、ずっと同じことをしていては、お店と私が似合わなくなることは薄々気が付いている。 コーヒーを1杯買うだけなら、私だって街のコーヒー店にいたあの女の子から買いたい。

私の未来。 見た目も頭脳も歳を取る。 その時の私に似合う仕事ってどんな感じだろう?

それはそれできっとあるはずで、むしろ今できないことができるようになるんじゃないかという期待すらある。

私はお店も一緒に歳を取らせるつもりだ。

若い子を雇って店頭に立ってもらうという手もあるだろうけど、私は自分の仕事をいつまでもきっと表舞台に置くだろう。だからお店も熟していかないと不釣り合いだ。

未来の自分に似合う仕事を作らなきゃ。

そのために今は色んなことにチャレンジする。 それは野心なんかじゃない。決死の生き残り戦略だ。

大きくなりたいんじゃなくて、何があってもしぶとく生きたいのだ。

迷わない練習

私は仕事をする際に決めていることがある。

なるべく即答することだ。人に対しても、自分一人の時でも、答えを先延ばしにせずその場で決めてしまうのだ。

「持ち帰って検討します」と言う時は、大抵断る時だ。(夫に相談しないと決められないということも稀にあるが)

なぜ即答するかというと、いちいち持ち帰っていたら仕事がたまりすぎてしまうからだ。

お店の経営って、びっくりするぐらいやることが多い。お店の営業中はゆっくりパソコンを開いている暇はないので、前後の時間で事務仕事をするのだが、まぁ終わらない。そのいちいちに迷いがあると本当に仕事が終わらない。

だから「迷わない」ようにしないといけない。迷わないためにどうしたらいいかというと、自分の中で基準を決めておいて即答するを実践してみる。続けるといつしか迷わず答えを出すことができるようになる。

「うーーーん、どうしよっかな」と迷う仕事は大抵いい結果をもたらさない。

「え!やりたい!」と思う仕事は、できるかどうか検討する前に「やります!」と答えてしまう。答えてしまえばできるように動くものである。「一度家で考えてみます」と言って数日後に「やっぱりやります」と答える人は最初の熱を逃していると思う。責任感からきちんとできるか確認して返事をしているんだと思うけど、依頼した方はそのタイムラグでちょっと冷めていると推察する。もったいない。

迷わないと仕事は加速する。加速した先には多くのチャンスがある。

「いつかお店を」っていつやるの?

今日はやってみたいことがあるなら、絶対早めにやってみた方がいいという話。私たち夫婦は32歳と33歳の年齢の時に「将来の仕事」について真剣に話し合った。話し合い当初は40歳くらいになったらお店を持ちたいねと言っていた(結局33歳と34歳の歳の時に持つのだが)。どうも人は現実に恐れをなしてやりたいことを先延ばしにする癖があるらしい。30歳で会社を辞めてお店を始めたことを後悔したことはない。やるならすぐやった方がいい。歳とると疲れるから・・・

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40歳を過ぎて感じる焦りがある。

「いつかやろう」と思っていたことの最終決断をそろそろ出さなければいけないのではという焦りだ。

例えば、いつかおにぎり屋さんをやろうと思っていたとする。開業準備をして軌道に乗せて営業を楽しむ日々を送ることを想像する。残り時間を考えると、もうやらないといけないといけない。

私たちは時間に任せて「やらない」方を選んでいるのに、まだ決断していないみたいな顔をしてしまう。

いつかいつかと言っていた「いつか」の日にもう来ているというのに。

若かった頃はたぶん、決断したように見せかけて、選ばなかった方の選択肢を捨てきってはいなかった。

就職しようか進学しようか。会社が合わなかったら大学に戻ればいいやと思っていたけど、結局戻らなかった。

会社を続けようか転職しようか。いろんな会社を経験する人生もいいなと思いながら転職活動したことがない。

子供を持つのか持たないのか。忙しいのを盾にしてちゃんと考えてこなかったから、うちには子供はいない。

日本に住むのか海外に住むのか。海外の方が肌に合うかもとか言いながら、真剣に考えたことはない。

選ばなかった方の選択肢。

もう選べなくなっているものもあると気付く。

こんな感じで、今後の人生はもっとたくさんの「やるやらないの最終決断」をしなければならないのだろう。

現状維持することはある意味何かを選択している。何もしないことは、決めていないようで実は決めている。

いつかやろうは、もうなしだ。いつかは今だ。

時間切れになって泣く泣く出した答えではなく、自分で選びとった道を私は進みたい。

ライフワークバランスという概念を捨てる。

ライフワークバランスとは「仕事と生活をどちらも充実させる働き方や生き方」のことだ。就職先や転職先を選ぶ際には欠かせないポイントの一つである。

だけど私は珈琲屋を開業してライフワークバランスという概念を捨てた。

ライフワークバランスを保つとは、「仕事が生活を侵食しないように気をつけること」に他ならない。

働きすぎない。休日は仕事を忘れてしっかり休む。そんな働き方を変える動きは昨今珍しくない。

自分のお店を持つと、仕事が生活を侵しまくる。週5日で仕事は終わらないので休日もパソコンに向かう(というか営業日はパソコンに向かう暇がないので休日しかできない事務作業がある)。四六時中お店のことを考えてしまう。私たちは火曜水曜が休みなのだが、取引先の会社は働いている曜日なのでメールも電話も来る。

初めの頃はつらかった。「休みの日なのに仕事してる!」と発狂していた。

だけどある時から、1日単位で仕事の日と休みの日を区別することをやめた。休みの日であっても気分が乗っていたら仕事する。仕事の日であっても昼寝したり買い物しに行ったりすることもある。仕事をしている自分と、休んでいる時の自分を区別するのをやめたのだ。

この気ままな感じが今はとても楽だ。

結局旅行へ行っても外食へ行っても、「これって素敵なアイデアだな」と自分の仕事に落とし込もうとしたりするので、脳みそはいつも仕事モードなのだ。だけどそれでいい。「今日は仕事しないぞ」と制約を設ける方がずっと疲れるのだ。

私はバランスを保つことをやめた。仕事ばっかりの時期が人生にあったって、いいじゃないか。

はしゃぐと嫌われます。

ー元会社員が珈琲屋になりました。転職してフリーランスになった身だから感じることがいろいろあります。私なりの独立開業の哲学を書きます。ー

皆さん身内贔屓の強いお店は好きですか?身内だったらいいですけど、お店のお客様のほとんどは身内ではありません。

なんだかイケイケで派手な生活をしている経営者は好きですか?一部の人は好きかもしれませんが、一般的には応援されにくいと言えると思います。

そう、経営者ははしゃいではいけないのです。絶対に。

理由は嫌われるからです。

お店を経営する上で絶対に必須なのは「応援してくれるお客様がいること」です。流動的な観光などの一見さんばかりのお店の経営は危険だし疲弊します。

それなのに「身内で楽しそう」だったり「生活がイケイケでうまくいってそう」などと思われると、応援してもらえないんです。お客様目線で言うならば、応援したくてもしにくいんです。

私が特に警鐘を鳴らしたいのが「身内客問題」です。この場で身内客とは家族や友達など、お客様として出会った人ではなく、あらかじめ関係性があって尚且つお店にお金を落としてくれる人のことです。

身内なので定期的に来てくれます。来たらこちらも相手をします。他のお客様よりも過剰に相手をせざるを得ないのは当たり前ですね。せざるを得ないというか、自分も楽しくなってしまうのでついつい盛り上がって話してしまうんです。

そこにはじめましてのお客様が来た時の気持ちを考えてみてください。

気になっていたお店に行って、そこの店員さんがずっと身内客と楽しそうに話していたら邪険にされたように感じてしまう。

楽しそうに身内客とトークしている中で「注文いいですかー?」と言いにくい。

あんまりいい印象にはならないのが現実です。

身内客がものすごい頻度で来てくれて、それで経営が成り立つなら言うことないんですが、身内客は半年に1回くらいしか来ません。それなのに大事な新規のお客様との交流を邪魔しているのです。

私たちは8年前に北海道札幌から福岡県糸島に移住してきてお店を開きました。実はこちらに知り合いは一人もいなかったので、身内客はゼロなんです。今となっては親しくなった人たちが来てくれますが、家族でもないし昔っからの友達でもない、私たちが珈琲屋であることが前提で出会っている人たちばかり。そして経営者が多い。他のお客様がいると遠慮して話をしないような配慮ある人たちばかりです。

私も妹がお店に遊びに来たら、中学校の時の友達が遊びに来たら、きっとはしゃいでしまうと思います。家族や友達のいない移住先でお店をやるのは、そう言う意味でとてもストイックになれました。全てのお客様に同じように接することができたと思います。

経営者は自分のお店ではしゃいではいけません。私もたまに間違ってはしゃいで反省しています。顔が割れているので糸島市付近でははしゃいではいけません。なんか窮屈だなって思いますか?はい、経営者はとっても窮屈ですよ。お店の顔ですから。そう言う意味では会社員のように仕事を忘れられる休日なんて、ありません。