コーヒー屋になるまでの話。11

お店の強みは何ですか。

どんな「強み」を持つお店を作るのか。他の店と違う点はどこなのか。

独立する時、自分たちのお店の強みはなんなのかを考える必要性を感じた。

当時読んでいた開業の指南書には必ず書いてあった。

「あなたのお店のセールスポイントはどこですか。どんな方法で他店と差別化が図れそうですか。しっかり自己分析しましょう。」こんな類の言葉がプレッシャーだった。

親族を説得する上でも、お金を借りる上でも、強みを持っているかどうかはとても重要視された。

でも正直に言おう。

開業当時、私たちだけが持ち、「それなら大丈夫だね!」と人に言わせるような強みなんて無かった。

「たくさんコーヒー屋さんあるけど、何が違うの?」

「みんなに勝てるような強みがあるの?もしくは秘策があるの?」

大体は私たちの開業を否定的な目で見る人、もしくは信用していない人からの質問だ。

だけど声を大にしてこの質問に答えられないことに、当時大きな焦りを感じていた。

どうしてお店をやりたいのか、お店でどんなことがしたいのか、それをどうやって伝えるかを考える。

開業して2年が経とうとする今、お店の強みを胸を張って言える。やりながら分かったこともあるし、自信を持って言えるようになるまで時間がかかったというのもある。

私たちの場合、お店の強みはお店を作る動機になったストーリーそのものではないかと思う。加えて美味しいコーヒーの定義を決め(焼きたてであることだ)、それをきっちり実践することで品質の強みも持つことができる。しかし繰り返しになるが、それらは決して誰にも思いつかないような唯一無二のものでは無いのだ。

コンセプトの話をすれば、

前章で書いたように、私たちは「人を癒したい」という大きな目的を叶えるためにお店を作ることにした。

お店では自然に触れてリラックスし、「自分に帰る」という時間を体験してただきたかった。その時間がうちに帰っても持続するように、想いを込めた商品を連れて帰って欲しいと思っている。

実質的な部分では、

自宅で美味しいコーヒーが長らく楽しめるように、新鮮なコーヒー豆を提供したい思いがあった。焙煎から4日以内の豆を売ることでそれを実現しようと考えた。他店ではあんまり見られない試みだが、これは必ず「あの店のコーヒーは美味しい」という評価に繋がると思った。「焼きたて」の呪縛のせいでロスが出るというデメリットが発生しないように、豆の生産管理には細心の注意を払う必要がある。

上記のことを読んで、どう感じるだろうか。類を見ない奇策だと思う人がいるだろうか。私はそうは思わない。誰にだって思いつきそうなことである。

一生懸命考えたありふれた強みを、丁寧に発信した。

ホームページやSNSに文章を掲載したり、イベントで冊子を配ったり、自分たちのお店のストーリーや、自分の中にある想い、そしてコーヒーの美味しさについてどう考えているかをひたすら発信した。

発信のために文章を書いているとお店を始めた気持ちの軸が見えてくるようで自分も面白かった。

こんな長文を誰が読むんだろうと思うこともあったが、意外と読んでくれた人からの反応はあった。

伝えることが最も重要。

社会に届けたいものがあってお店を始める人はたくさんいると思う。始める時のストーリーはその人固有のものであるが、本当に伝えたい芯のメッセージは実はかぶっていたりするものだ。

それに焙煎してから時間が経ったコーヒーが美味しくないのは、コーヒーに詳しい人なら当たり前に知っていることだ。「焼きたてを売ろう!」なんて名案でもなんでも無い。

一番大切なのは、それらの自分で決めたお店の売りを守り、そして一生懸命伝えることだ。

お客さん、これからお客さんになるかもしれない人、仕事で関わる人たちに、私が持っている熱を言葉で届ける必要がある。しかも一度ではなく継続的にだ。

これができていない人が意外に多いように感じる。お店のSNSを見ていても、「今日はお休みです」とか「今週のメニューはこれです」とか業務連絡ばかりで熱量やエンタメ性が全く感じられないことが多い。

「発信が大事」ということはこの時代においてみんなわかっていると思う。でも発信すればなんでもいいわけでは無い。

自分が考えた「強み」がありふれたものでも気にしない。大切なのはあなたの言葉で伝えることだ。

私はコーヒー屋を始める前はカフェ好きの会社員だった。いろんなカフェに行きいろんな雑誌を読み、その上で作った自分の店が誰かとかぶっていても何ら不思議では無い。元からそんなにアイデアマンでは無いし、たったひとつの光る才能を持っているという自負もない。ありふれたものを「自分のお店の強みにしよう」と思ってしまう自分を情けないとは思わない。

大切なのはそれを自分の言葉で人に伝えることだ。熱量を持って。

自分の言葉で発信をして、やっと人に「強み」が届く。

自分の言葉で伝えて初めて、「他のお店と違う」と感じてもらえる。

今後根幹にあるコンセプトは変わらなくても、その言葉は変化していくだろう。なぜなら私も歳をとり経験が増えて変わっていくのだから。時代も流れていくのだからちょうど良いと思う。根幹を大切にしながら今の自分の口から出てくるものを形にしていけばいい。

これから独立したい人に伝えたいのは、強みが無いのはダメだけど、「大した強みじゃないなぁ」と思う必要はないということだ。

自分の平凡さを認めて、それでもやりたいという熱量の方を大事にしてほしい。そうすればきっと発信したくなるはずだから。そしてそれは誰かの心にきっと届く。

コーヒー屋になるまでの話。⑩

そもそもなぜ「コーヒー屋」だったのか。

私たちがなぜ、コーヒー屋と言う業種を選んだのかの話をしたいと思う。

はじめに話しておきたいのは、私はコーヒー屋さんに憧れていて長年コーヒー屋になることを夢見てきたわけでは無い。誰かをがっかりさせる発言かもしれないが正直に伝えたいと思う。

一番好きなことは仕事にならなかった。

私は動物が大好きで、獣医さんになりたかったり、ドッグトレーナーになりたかったり、20代後半までイルカのいる施設で働く夢を捨て切れなかった。でもこの大好きなことを仕事にはできなかった。どうしてだろう。幻想をそのままにしたかったのかもしれない。なんとなく好きで終わってしまった。

焙煎を担当するうちの夫も、かつては消防士を目指していた。出会ってすぐの頃は格闘技に興味がありそうだったし、いまだに寿司屋になりたいとか言っている。

仕事を通してどうなりたいかを優先した。

仕事を変えることで何を目指したか。それは意外と素朴なことである。

①夫と働きたかった・・・結婚して思ったことは、せっかく家族になったのに一緒にいる時間が少ないということだ。「下手したら自分の課長の方が今日長く一緒にいたんじゃ無いか?」と感じたとき、当たり前の日常が異常に感じた。私が異常なのかもしれないがなんか違うと思った。

②もし子供が生まれたら一緒に育てたかった・・・共働きだった場合、どちらかが(多分私が)一日の大半を子供と2人で過ごすのだと思ったら、そんなことできないと思った。自営業にすれば2人で育てられると思った。

③ありがとうを感じられる仕事がしたかった・・・かつて大きな組織で働いていたので、お客様からの「ありがとう」も自分が言う「ありがとう」もなんだか空々しかった。人に貢献していたり、影響を与えていたりする実感が欲しかった。

④なんでも自分で決めたかった・・・組織で働いていると上の決定に従うのが当たり前になる。それでうまくいったとき、一番嬉しいのはトップの決定権を持つ人間だ。私は前の仕事をしていて心底嬉しくて心の底からガッツポーズをした事が無かった。このままでは嫌だと感じていた。

⑤休みは自分で決めたかった・・・前の章で少し書いたが、私はいつでも体調が万全では無い。働く時間は自分で決めたかった。それにいつ休暇をとって遊びに行くのか自分で決めたかったことは言うまでもない。

何ができるかを考えた。

上記を踏まえて自分たちに何ができるかを考えた。④と⑤がある以上、もう組織で雇われるのは違うと思った。

2人でできる超小規模事業。

私はカフェによく入り浸っていたので、「カフェをやろう」と言うことになった。夫も飲食に興味がある様子だった。

その後考え直して「コーヒー豆の小売業」に落ち着いた。

カフェをやめた理由はカフェは忙しいので2人じゃできないということだ。当初はカフェで働いた事が無かったのでわからなかったが、飲食店はとても忙しい。仕入れに仕込みに、お客様へのサービス。メニューも定期的に変えたり。とても2人では無理だ。カフェをやるというビジョンの先に、ゆくゆくは自家焙煎珈琲店になり、コーヒー豆の売り上げが立つようになり、豆の販売だけでやっていくという目標を持っていた。なので最初から一番目指していた場所にチャレンジすることにした。

業種を選ぶ上で気にしなかったこと。

転職するときや異業種にチャレンジするとき、みんなはどうやってその業界を選んでいるのだろう。

ビジネス論なんかで大事っぽいと言われていることは私は気にしなかった。

●好きを仕事にするということにこだわらない・・・私はなりたい暮らしを実現するためにできそうなことの中から仕事を選んだのだ。好きなことで生きていくというスタンスでは無い。

●伸びそうな業界かどうかということは気にしない・・・どの業界が伸びるかなんて誰にもわからない。ましてや私たちみたいな小規模事業者がそんなことで仕事を選ぶべきでは無い。世の中の流れが変わったってそう簡単に方向転換できないのだ。条件が良さそうで最初選んでしまうと、その後も条件の一番いい場所を選び続けないとそのプランは頓挫してしまう。

●競争相手が多いかどうかということは気にしない・・・どの業種だって先輩がいる。私がやろうとしていることなんて、すでに誰かの二番煎じなのだと諦めた。お店の場所を選ぶときも、その場所に競合店が多いかは気にしなかった。同じ地域に何店コーヒー屋があったらNGなのか、同じ地域とは半径何キロメートルのことなのか、そういった判断基準を決めずに市場調査しても意味がないからだ。さすがにコーヒー屋の真横にお店を作ったりはしない。その辺はフィーリングで決めるんだから、せっかくなら好きな街でやろうと決めた。

一通り読むと、なんだか夢のない理由で私たちはコーヒー屋になった。

でも今の毎日はワクワクが溢れている。仕事を含めた暮らし満足度も高い。

自分たちの店に投資したもの(時間や労力やお金)が大きくなればなるほど、愛情も情熱も湧いてくるものだ。

仕事を通してどうなりたいですか。その仕事に長く愛着を持てそうですか。

好きなことを仕事にできているかどうかよりも、私はこれが大事なんじゃないかと今思う。

コーヒー屋になるまでの話。⑨

名前をつける。心に火が灯る。

「森とコーヒー。」という店名が決まったのは、2017年6月5日だった。

それまで漠然としていたものの輪郭がはっきりとした瞬間だった。

その日から「森とコーヒー。」という存在に火が灯り、今日も私の心の中で同じ熱量で燃え続けている。

思い描いているものに名前をつける。そのパワーは偉大だ。

名前の決め方。

「どうしてこの名前にしたんですか。」とよく聞かれる。

「森の中にお店を作って、そして名前は物語の書き出しみたいにしたかったんです。」と答えることが多い。その通りなのだが、ここでは詳細について詳しく書こうと思う。

まず先に決まっていたのは「お店のメッセージ性」だ。コーヒーを通して何を伝えたいのかは決まっていた。

「非日常、日常からの隔離、自然との融合」が大きなキーワードだった。

悲しいくらいなんの個性もない。こんなありがちなビジョンしか持っていなかった。

お店を構える場所は「森」がいいと思っていた。海は好きだけどちょっと目指す世界観が違うような気がした。森の中にポツンとあるような、他の世界から隔離された場所を作りたかった。

そしてこの頃は本をたくさんお店に置きたいと思っていた。森の中にある本が溢れるお店。「本の森」を作りたいと考えていた。

「森、コーヒー、本」みたいなキーワードが頭をぐるぐるしている時に、衝撃的な名前のお店に出会った。

「女とみそ汁」である。福岡にある飲食店さんの名前だ。こちらのお店に行ったことはないのだが、その名前が爆裂よかった。刺さった。名前だけで世界観が伝わってくる。なんて素晴らしい名前なんだ。

こちらにインスパイアされて、私のお店の名前は「森とコーヒー。」になった。マルをつけたのは先述した通り物語の書き出しっぽくしたかったからだ。

日常から隔離された場所、日々の煩わしさを忘れたい時に逃げ込める場所、そんな休憩場所のようなものを「森」という言葉に変えた。「森」はあくまで象徴的な言葉だ。実際森に行かなくたっていい。うちのコーヒーを飲んでもらうことで、「時には休んでもいいんだ」というメッセージを感じてもらいたい。そうやって時にはひとり休む時間や場所が心の中にあればいいと願っている。

名前が決まると道が見える。

「森とコーヒー。」という名前が決まってからは色々な迷いがなくなった。どんな店にするか、どんなコンセプトがそこにあるのか。急に見えた気がした。
何か決断を迫られた時は「森とコーヒー。にはこれは絶対必要」とか「森とコーヒー。にはそんなもの必要ない」とか瞬時に決められるようになった。
「森とコーヒー。」という夢に火が灯った。その消えない炎の光が私をいつも導いてくれる。

この先、この頭の中で出来上がりすぎてしまったお店のビジョンのおかげで場所探しに苦戦することになる。

しかしながらここからお店を始めるまでは早かった。

これから何かしたいことがある人は、その構想にぜひ名前をつけてあげてほしい。

そうしたら急にそれが生き物みたいに成長していく。

コーヒー屋になるまでの話。⑧

異業種へ転職。洗礼を受ける。

私はコーヒー屋を開業するためにふるさと札幌を離れて、福岡県糸島市という海が綺麗な福岡の片田舎へ移住をした。

2017年4月のことである。

糸島はここ数年、関東圏からの移住者が多く「住みたい街」として人気だ。また観光客も多いため田舎に似合わずおしゃれなカフェやパン屋さんの数が多い。

夫は糸島のとある飲食系の会社に就職した。おやすみは木曜だけ。これまで週休二日、しかも有給付きが当たり前だったからびっくりした。残業代なしというか残業という概念なし。定時がいつなのかみんな認識していないんじゃないかと思うくらい夜まで働く。

私は海辺のカフェでアルバイトすることにした。履歴書がいらないと言われてびっくりした。急にキッチンで使ってくれた。メモを取る暇もないくらい次々仕事がある。OJTなんてものじゃなかった。すぐに最前線で働く。入店してすぐにゴールデンウィークに突入。ものすごい忙しさ。そしてキッチンは暑い。福岡の5月はもう夏のようだった。人生で初めてアゴから汗が滴り落ちた。朝10時から夕方17時まで休憩なしで働く(もちろん食事もなし)。

この仕事の仕方はなんだ?

私も夫も、前職との差がすごすぎて、最初はついていけなかった。(夫は市役所、私はとある科学検査財団で働いていた。マニュアルやコンプライアンス大好きな職場だったのだ。)

仕事のマニュアルは?というか就業規則は?この会議の仕方はなんだ?

とにかくツッコミどころ満載でパニックだった。でも向こうから見たら私の方がツッコミどころ満載だったんだと思う。頭がカチカチで口は立つくせに、実際手を動かしたら何にもできない。

マニュアルが必要なほど従業員はいないし、就業規則がなくても信頼でやってきてるし、会議資料作っている暇があったら即実行して1円でも稼げという感じ。

こんな風に書くと、「そんなにいやなら元業種に戻れば?」と思われるかもしれないが、私はある意味感動していたのだ。

飲食店は「人」が作っている。

飲食で出会う人はみんなすごくいい人だった。

まず一緒に働く中で心底ムカつく人というのが基本出てこない。気持ちいい優しい人ばかりだった。

それにみんなお店のために、お客様のために真っ直ぐだった。どうしたらもっと良くなるかな?という話を臆せずにいつもしていた。

このお店を良くしたいという気持ちをいつもみんな持っていたし、持てなくなった人はすぐにやめていった。

お店にいる人がその店を作っている。すごくそう思えた。

当事者意識なく会社のコマとして働いていた私には感動体験だった。

この業界で私は何ができるのか。

この海辺のカフェで1年働いた。最終的にはとても好きな職場となったが、1年働いたら辞めると最初から宣言していたのだ。

飲食の業界に飛び込んで、この業界で生きていくならこの3つが強みになると思ったことがある。

①システムや法律に強い

私がアルバイト中に重宝してもらえたのは、手続きとか新しいシステムの導入とかに強いというところだった。

イベントに出たいけど保健所の手続きが面倒・・・とか、レジ締め作業に毎日時間がかかっている・・・とか。

保健所の申請は、マニュアル通りに書類を書けばいいだけだし、レジは自動集計システムのついている無料のレジアプリを使えば毎日伝票を数える必要はない。これらはアルバイト中に提案して実行した。

意外とそんなちょっとしたことに時間を取られている個人事業主は多い。この時間分私は別のことができるなと思った。

②お客さんだったころの自分がすぐそばにいる

私は30年以上お客さん側だった。

お店に来る人の気持ちがどんな風なのかいつも臨場感を持って想像できる。普段オフィス街で働く人たちが休日の海辺のカフェに求めるものはなんなのか。

その視点を忘れないでいることは、お店作りに役立つと思った。

③文章を書くことに抵抗がない

お店のSNSやHP、チラシなどの作成のために文章を書かなければならないことは多々ある。またメールでのお問い合わせ対応や、ネットショップで買ってくれた人へ同封する手紙など、飲食の仕事をしていてもこういった事務作業はついて回るのだ。

大した文章じゃなくていいのだが、これが苦手だとすごい重荷に感じてしまう。私は幸い文章を書くのが好きなのでサクサクできる。

個人でやられているお店のストーリーやコンセプトはすごく素敵なことが多い。でもそれをうまく発信できている人は少ない。すごく勿体無い。文章や写真などを何かの媒体に乗せてアピールするのが苦手な人が多いのだ。実際に行ってその人に合えば魅力が伝わるのに。

「その場で体験しないとわからない良さ」これも価値の一つだが、こんなにもインターネットで世界が繋がっているのに勿体無いなぁと思う。

私はこの辺うまくやれそうだと感じた。

洗礼が教えてくれたこと。

このアルバイト経験により、自分には何ができるのか、そして何ができないのかが明確になった。

私には料理はできない。カフェで出す料理なんてちょっと修行すればできるだろうと思っていた。でもできない。そもそも自分の作るものに満足できないし、毎日毎日買い物して仕込みをして提供して・・・想像よりすごく大変だ。そんなこと続けられない。それができるのは料理が好きで、料理で人を喜ばせたいと心から思っている人だということに本当の意味で気が付いた。

私には毎日休まず店を開けることはできない。お店で人を待ち続けるのはストレスだ。人がたくさん来たとしても、何人来るのかわからないお客様を毎日受け入れるのは大変だ。毎日開けることが大切ではない。ちゃんと稼ぐことを達成すればいいのだ。休みなくたくさん働くのが美徳な時代はもう終わりにしよう。

これらを踏まえて自分はどんな店を作るのか。夫婦2人でカフェをやるというのはとりあえず無し、というか無理だと思った。それがわかっただけでもここで働いてよかったと思った。

全ての経験は無駄にはならない。

お世話になった海辺のカフェは今でもお気に入りの大切なお店だ。

コーヒー屋になるまでの話。⑦

北海道から福岡へ車で移動。無職の時間。

2017年3月17日。苫小牧港から「きたかみ」というフェリーに乗って移住地に向けての移動が始まった。

フェリーは仙台港に着く。そこから陸路で福岡県糸島を目指した。全行程6日間の車の旅だ。

札幌最後の夜はもう家も引き払っていたので夫の実家に泊まった。次の日私の実家に立ち寄って、その足で苫小牧へ。

この土地を離れるという感覚。2度とこの車で同じ気持ちでこの道を走ることはない。走りなれた札幌の道をずんずん進む。

うちの母の最後の言葉は「無理しないで」だった。そんなの無理だ。今の力量では無理な計画を実行しにいくのだから。実に母らしい。母親は今だって私たちの事業計画に反対だ。

寂しさよりもワクワクする気持ちの強い出発だった。

そこからは昔の友達を訪ねたり、行ってみたかったお店に立ち寄ったり、前半は楽しい旅だった。後半はひたすら高速道路を飛ばした。1日に300kmくらい移動しそれを連日続けるのはたやすいことじゃない。元気だったのは奈良くらいまでだった。

この期間は夫と私、二人とも無職だった。

夫は福岡県糸島市にある会社に就職が決まっていたが、4月末からの勤務だったのだ。

移住してすぐに事業を始めるのは難しいだろうと考えて、夫は飲食関係の会社に就職先を決めていた。私もすぐにバイトに就くつもりだった。

ちゃんと会社に就職を決めてから動き出すのがなんとも私たちらしい保身っぷりだと今では思う。でも当時は「その会社がいい感じだったらしばらく続けてもらってもいいかも」などと思っていた。しかしながら現実はそんなに甘くないのである。この話はまた追ってしようと思う。

約1ヶ月間、無職の時間を過ごした。

その間にまだ行っていなかった新婚旅行と称して竹富島へ行った。

なんとものんびりした移住生活のスタートである。

旅の途中に体調を壊した夫を残して、私は着いたばかりの糸島を一人ドライブした。4月の暖かい糸島はキラキラ見えた。

まるで昨日のようだ。

お店の場所も名前もメニューもコンセプトも何も決まっていなかった。

引っ越し、車での移動、旅行、新居での生活。貯金はどんどん減っていく。

とにかく動け、でここまで来たという感じだった。

コーヒー屋になるまでの話。⑥

移住を決意、道は決まった。

2016年7月2日〜7月4日の期間、福岡県糸島市に移住先検討のための旅行に出かけた。旅の帰り道にこの地に移住することを決断した。

糸島へ移住前に4回ほど訪れました。(夫は会社の面接があったので5回来ています)この決定打になった7月の旅の前に1度、その後2回。移住前にこういった事情でまぁまぁお金がかかるのは言うまでもないですね。

移住したのはなぜか

よく聞かれます。私は暖かい土地に住んでみたかったのです。ただそれだけ。

地元である北海道札幌市のことは好きです。家族も友達もいる。

私も夫も札幌で生まれ育ち、30年以上の時間を過ごしました。

でも仕事を変えるとなった時、住み慣れた土地に居続ける必要はないと感じました。土地を変えるなら今しかない。

どの土地に開業すればコーヒー屋がうまく行くのかは、私たちにとって一番大事ではなかったのです。

どこに住みたいのか。これが一番大切でした。その結果札幌ではなかったのです。

なぜ糸島を選んだのか

これもよくよく聞かれます。糸島が気持ちよかったからです。

旅で訪れた時、気候も海の色も、人の温かさも気持ちよかった。

他の候補地を検討しませんでした。迷いだしたら時間が足りないし、またいいところが見つかったら引っ越せばいいと思ったから。

他の土地がどうかは見ていないので知りませんが、糸島の人たちは地元の人も移住の先輩達も皆応援スタンスでした。移住や開業に否定的な発言をする人はいなかった。そのことが嬉しかったのもあります。

移住先が決まったことで色々具体的に動き出すことができる。

とてもワクワクしました。

7/5の日記には「今の日々よりも自分たちが自分らしく生きれるといい。」と書いてありました。

自分でお店をやる上で、経営上の不安や悩みが大きすぎて「自分の感情」が置いていかれがちになります。

でもどうして開業しようと思ったのか。それは気持ちが先行していたはず。個人の飲食店や小売店を始める人のほとんどは「自分でお店をやったほうが明らかに儲かる!」と言う動機ではないはず。

どうしてやりたいのか、何をやりたいのか。いつも自分に問う必要があると思います。

そしてこの動機こそが、自分のお店の色でありコンセプトに繋がっていくのです。そこに共感してくれる人が未来のお客様です。

お店の建物や内装、使う道具や食器、HPのクオリティ、商品一つ一つの完成度、どれを取っても正直大手企業の打ち出すものにはかないません。それらすべてを完璧に仕上げたい人は、組織の中でやるべきだと思います。自分でやると必ず規模は小さくなります。

自分でやることの最大の強みは、誰にも止められないことです。お店の名前はこれにしよう。コンセプトはこれでいこう。今日はSNSでこんな発信をしよう。こんな商品を作ってみよう。誰にも文句を言われません。自分で思いついたことを即試せる。すごく刺激的なことです。お店に共感してもらうことは自分に共感してもらうこと。組織に属していては得られなかったであろう感動があります。(ただしマイナス評価も然りですので、他人の評価が気になりすぎる人は辛いかもしれません)

お店をやってどうなりたいのか。

「今の日々よりも自分たちが自分らしく生きる」

移住先を決めたことと一緒に日記に書いてありました。

現実問題と感情。どちらにも重きを置かないのが私の自営の形です。

コーヒー屋になるまでの話。⑤

何をしたら、前に進めるのか。

2015年12月27日、夫が初めてコーヒー豆の焙煎に挑戦した。

ガスコンロの上で網に入れたコーヒー豆を直火で焼く、いわゆる手網焙煎というやつだ。

カフェを開業しようと決めて、お金を貯め始めてはいたけれど、他に具体的に何をしたらいいのかわからなかった。飲食店で働いて修行?カフェの専門学校に通う?コーヒー関連の資格をとる?

あの頃の自分にアドバイスできるなら、「とにかく動け」と言いたい。

学校に通うことや資格を取ることは、カフェをはじめた後にその知識が役立つと思うけど、「お店をはじめる」ということには繋がらないと思う。学校を出て就職をした人なら、まずは教えてもらう環境を探すことや資格取得に走りたくなるだろう。でもこれじゃ始まらないのだ。それにそんな時間やお金はないのだ。

できなくてもいいから、場所を借りて一日カフェをやってみるとか、コーヒー焙煎を実際に自分でやってみるとかそういうことが必要。

でも私はこわかった。イベントをやっても人が来なかったら?自分が考えた店の名前やコンセプトを発信するのって恥ずかしい!こんな気持ちがまだあった。(今はなんとも思わない。むしろワクワクするし、発信することは気持ちいい)

そんな中、夫が焙煎にチャレンジした。味は覚えていない。とにかく焙煎したということが大きな一歩だった。あの日から夫はものすごい回数豆を焼いて、ずっと独学で焙煎をしている。コーヒー屋に専念できたのはここ1年の話なので、仕事が終わった深夜や早朝に豆を焼いていた。

何をしたら、前に進めるのか。会社員だったのに30代前半で退職してコーヒー屋になるという人が近くにいなかったので、誰も教えてくれなかった。どうやったらその道に行けるのかわからなかったのは初めてだったかもしれない。そんな時はとにかく動け。見当違いなこともいっぱいやった。あんなことに時間とお金を費やしてバカみたい・・・と振り返ることが多々ある。でも動かないよりずっとマシだ。

イベントは真剣に企画すれば人は来てくれるし、お店の名前やコンセプトを聞いて笑うような奴がいたらそいつが間違っていると思う。(アドバイスをくれる人がいたりする時はちゃんと聞こう)

恐怖心や羞恥心を突破したその先に道がある。頭に思い浮かんだことをやってみること。これが少しずつだか前に進むことになる。

書いた日:2019年7月2日

コーヒー屋になるまでの話。④

会社に行けない、ダメ人間。

良性突発性頭位めまい症という病気になった。

原因は不明。文字通り頭の位置をダメな方向(この病の人は人によってNG角度があると思う)に動かすと急に回転性のめまいがやってくる。危険なのは寝ている状態から起き上がる時。いまだに発作的にめまいは襲ってくる。治ってないのだ。良性だし生活は緩やかなのでほっておいている。しかし朝9時から始まる仕事に週5ではもう行けないだろう。なんてダメな人間なんだと嫌だった。でも今は仕事を自分たちで作っているから「会社に行けない=ダメ人間」とは思わない。

私は今、夫と二人でコーヒー屋をやっている。開店時間は12時から。どうしても朝起きられない時は開店準備は夫一人でやる。

何かしらの理由で会社勤めが辛い人は、開業すれば(自分で作った仕事をすれば)いいと思う。

確か最初に発症したのは2015年の春頃だったと思う。友達の家で一晩眠って起き上がろうとしたら、上と下がわからないくらい目が回ってへたり込んだ。とっさに症状を友達に悟られまいと思い、どうにか家を出て駐車してあった自分の車で3時間くらい休んだらどうにか運転できるようになった。

それからと言うもの、たまに突発的にめまいはやってくる。立ち上がれないほどのレベルのやつだ。しかもそのあとは乗り物酔いの気持ち悪さがやってくる。私は乗り物に弱い。船はもれなく吐くし、いまだに飛行機が苦手。めまいがした朝は通勤電車に乗ることが難しかった。

月に1回くらいの頻度から始まり、最終的には週に1回は会社を休むようになってしまった。以前の投稿で述べたように、開業資金の貯金のために働かなければ行けない時期に、有給は使い果たし、欠勤も使い果たし、ついには休職までしてしまった。最後はもう退職しか道が無くなり、一度退職した後同じ職場にパート職員として復帰させてもらい2017年3月までどうにか働いた。元職場には多大な迷惑をかけたにもかかわらず、どうにか職場にいさせようとしてくれた直属の上司や周りの方々に言い切れないほどの感謝がある。

いまだに理由はわからない。ずっとストレスだと思っていた。当時は結婚や移住に関して母親から猛反対されており、精神的に疲弊していた。また会社を休む申し訳なさがまた自分を追い込むという、救いようのない負のスパイラルにはまっていた。

現在、特にストレスはないが、めまいはたまにやってくる。もう体調として付き合うしかないのかなと思う。でも会社員のままだったら「なんでこんなに自分はダメなんだ」と思い続けていたと思う。なんかせつない。

朝9時出勤、週5日が向いてないのだ。ただそれだけ。会社に勤めることが正義だと思い込まされていたから、自分をダメだと卑下してしまった。日本の働き方の意識が変わって、有給が取りやすくなって、残業が少なくなっても私には無理。体調がいいときはバンバン働くけど、長いスパンでそれをキープできないのだ。ちゃんと仕事している会社のみんなを尊敬している。でもそこからこぼれ落ちたことは社会からこぼれ落ちたことではない。自分の都合に当てはまる企業なんてなかなかない。なんの資格も特技もない普通の34歳。あっても雇ってもらえない。だからコーヒー屋を自分で作って社会に食い込んでいる。(開業の理由はもちろん他にもある)

会社が辛くて病んでしまう人の話を聞くと、すごく心が痛くなる。やめちゃえばいいという簡単な話ではないことはわかっている。でも仕事って1回しか選べないんだっけ?習い事とか恋人とかジム通いとかって合ってなかったら変えますよね。特に結婚相手なんて一番自分に会う人を必死で探しますよね。それぐらいのこと、仕事に対してもやっていんじゃないかと思う。

合わない環境で、自分をダメにするのはもったいないことだ。

書いた日:2019年6月27日

コーヒー屋になるまでの話。③

お金がないと、はじまらない。

カフェ開業はお金が無いとはじまらない。

開業のことは何もわからなかったけど、お金が必要なことは間違いないということはわかった。夫も私もお恥ずかしいことに結婚前に貯金はほとんど無かった。

2015年9月2日に、

・あと1年半今の職場で働いでお金を貯めること

・一緒に暮らすこと

・結婚すること

を決定した。

30歳を越えていた私は結婚に対してそんなに思い入れはなく、流れみたいな感じで結婚を決めた。貯金のために新婚旅行や結婚式はしないことにした。旅行は行きたい時に行くし、二人で開くお店のオープニング日こそが私たちにとっての晴れ舞台だと考えた。要は開業の方に夢中だったのだ。

そこから2017年3月末まで、私たち夫婦は片方の稼ぎで生活し、片方の稼ぎを貯金、ボーナスも半分以上貯金という日々を過ごした。そうして貯めた額は退職金も入れて500万円程度。(最初の想定よりも貯められなかった理由は、私の体調不良による早期退職である。このことについては次回。)

このお金は移住先検討のための旅行、引っ越し、各種税金の支払い、開業前の諸々の活動にかかるお金等でどんどん減っていくことになる。実際移住してからの生活で収入は激減し貯金はできなかった。本当に減る一方だ。店舗開業時には結局融資を受けなければいけなかったので、開業直後はお金は超マイナスだった(お金を借りている状態)。

「お金なんて借りればいいし、新しくはじめた事業で稼げばいいよ!」と私は考え、すぐにでも行動を起こそうとしたが、夫はそれを止め1年半そのまま働き続けることを選んだ。おかげでなんとか店を持つところまで漕ぎ着けた。私一人だったら危なかった・・・

実際のところ、お金なんてすぐには借りられないし、はじめた事業ですぐに黒字にするなんて到底できない。元手のお金が無いと誰にも相手にされないし、本気じゃないと思われる。お金がないと理想の店は作れないし、安っぽい雰囲気の店で高額商品が売れるだろうか。

お金が無いと、何もはじまらない。

カフェ等の個人のお店を開く上で例外なくそうだと思う。会社勤めをしていて独立を考えている人がいたら伝えたい。

貯めれるときに貯めましょう。その額はあなたの意気込みを表しています。

(貯めすぎて時を逃す危険もあるので貯めすぎ注意です)

コーヒー屋になるまでの話。②

やめること、はじめること。

コーヒー屋をはじめることは、元の仕事をやめることだった。

異業種への転職。

私は元々、食品分析を行う財団の職員だった。夫は地方公務員。仕事をやめたいという積極的な気持ちは正直なかった。でもやりたいことができてしまったのだ。

前職のことは、好きだった。

私は大学院卒業後に会社に就職した。本当は大学で研究者になろうと思っていた。海洋生物の行動生態学を専攻していた。論文を書くのも学会発表も得意だった。でも、自信が無かった。成功する自信、継続する自信、それが無かった。研究に没頭し、芽が出ない時期を乗り越え研究者として食べていく・・・きっとできない。しっかり稼いで程よく遊んで社会のためになっているという自負もあってという会社員ライフに憧れてしまった。つまりは一度目指した道から逃げたのだ。

そんな気持ちで就職。希望の部署にも入れない。会社員1年目はやめたかった。でもとてもとても人に恵まれた。仕事内容はお客様対応。分析試験の内容を説明し、結果についても一緒に考察する。法律の知識や化学の知識が要求される仕事だった。人に説明して納得してもらう。自分の頭にあることをわかりやすく説明できると気持ちいい。そして理系の人しかいない職場の人間関係や上司からの評価はとてもあっさりさっぱりしていた(理系だからかはわかりませんが)。仕事は肌に合っていたし、会社は私にとって居心地がよかったのだ。

でも、「一生この仕事でいいのか?」「自分の力を100%出して生きているか?」この疑問が頭から離れない。そんな風に思いはじめたのは5年目あたりからだったと思う。

口に出したら、はじまってしまった。

そもそもカフェ開業(後にコーヒー屋に変更)を決断した時、私たち夫婦はまだ結婚前だった。
一緒に昼寝していた休日、ふと提案してみた。「どっちか一人がやりたいことにチャレンジして、もう一人がそれを経済的に支える。これからじゃんけんしてどっち役になるか決めようよ。」

この話が盛り上がった。薄々感じていたけど、彼も「この仕事で人生終えていいのかな」という気持ちがあったようだ。4時間くらい話した結果、二人で地方でカフェをやるという結論に達していた。

夫は地方公務員の事務職だった。元々消防士を目指していたが、事務職の方に合格してしまったので諦めてしまったようだ。

二人とも一度諦めた道にはもう興味が無くなってしまっていたが、何かやりたい気持ちを燻らせていた。それが二人いることで気持ちが大きくなってしまったのか決意してしまったのだ。(ちなみに一緒に開業するから結婚するという話にその後なった。)

やめたい気持ちじゃ、どこにもいけない。

転職にあたって、前の仕事が嫌という気持ちではなく、カフェを開業したいという気持ちが動機だった。

プラスの動機が原動力であったことは重要だったと思っている。会社をやめたいからという理由だったらきっといろんな壁を越えられなかっただろう。個人で店を開業するというのは、決断の連続だ。どこで、どんな風にお店をやるのか。誰に来て欲しいのか。迷った時に導いてくれるのは「なんのために開業したいと思ったのか」という自分の想いだ。

はじめることは、やめることだ。でもやめることは必ずしもネガティブなことではない。前向きな気持ちでやめた過去は財産になる。はじめた後は、やりたいプラスの気持ちが常に自分を導いてくれる。

あの時、やめない方を選んでいたとしても、私は今日も笑っていたと思う。理由を持って選ぶということが重要なのだ。会社をやめることで人生が開けるなんて思っている人がいたら必死で止める。ネガティブな心はどこにも行けないから。

コーヒー屋になるまでの話。①

2015年6月28日に書いた日記を見返している。

この日、転職を決断した。

決意したその日から、ずっとノートを付け続けている。何かをしようと思った時、文字にすることは大切だ。書いてしまえば消せないので、そこからもし逃げたら「自分は逃げたんだ」と自らを責められる。人に公言することも同じ効果があると考えている。だから私は何かを成し遂げたい時、日記に書いて周りの人に言う。人に夢を語れないうちは、まだ意思が弱いんだと思っている。

頭に浮かんだアイデア、感情、人に言われたこと。ノートは6冊目に入ろうとしている。

自分の中での整理の意味も込めて、日記の内容をここにまとめることにした。もし転職や開業に悩むアラサーの女性の方がいたら、ちょっとは励みになればいいなという気持ちもある。

現在、ふるさとである札幌を離れ、福岡県にてコーヒー焙煎とショップ経営をしている。36歳になった(2021年現在)。

ここにたどり着くまでに、結婚・退職・移住・開業に関わる様々なことがあった。順を追ってこれからまとめていこうと思う。